瑞巌寺ミシュラン三ツ星観光施設 MICHELIN Voyager Pratique Japon

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瑞巌寺-Zuigan-ji-




所在地 : 宮城県宮城郡松島町松島字町内91
位置 : 北緯38度22分19.84秒
東経: 141度3分34.55秒
山号 : 松島青龍山
宗派 : 臨済宗妙心寺派
本尊 : 聖観音菩薩
創建年 : 天長5年(828年)
開基 : 慈覚大師円仁
正式名 : 松島青龍山 瑞巌円福禅寺



青龍山 瑞巌寺 (せいりゅうざん ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の寺院である。正式名は松島青龍山 瑞巌円福禅寺。平安時代に建てられ、宗派と寺の名は天台宗の延福寺、臨済宗建長寺派の円福寺、現在の臨済宗妙心寺派の瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。

僧堂がある。毎年、年始に伊達氏及び伊達家家臣が集って歌会始をするのが慣わしとなっており有名である。

----------歴史----------

---天台宗延福寺---
平安時代にあった延福寺がどのような寺であったかは、寺に伝わる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として円仁が開山した天台宗の寺であった。円仁が開いたという話は他に正嘉2年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されており、確証にはならないが古い伝えではあった。『天台記』はまたこの寺が奥州藤原氏の保護を受けたことを記すが、その人名に誤りを含む。源頼朝が源義経追討にかこつけて奥州藤原氏を滅ぼしたときには、頼朝のために祈り、保護を受ける機縁となった。北条政子の手紙と政子が寄贈したという仏舎利が伝えられている。


---臨済宗円福寺---
鎌倉時代、禅に傾倒した北条時頼は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。これが臨済宗建長寺派の青龍山円福禅寺である。

天台宗から禅宗への転換は、『天台記』には時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。それによれば、時頼は旅の僧として祭礼を見物していたが、感動し大声で祭を褒めた。それが祭を乱したとして、多数の僧徒が時頼を殺そうとしたが、幾人かの僧のとりなしで亊無きをえた。逃れた時頼は岩窟で修行中の法身に出会い、天台僧を滅ぼして禅宗を広めるという密談を交わした。その後時頼は千人の兵力を差し向けて天台宗徒を追い払い、法身に寺を委ねた。怒った天台宗の僧は集まって時頼を呪詛し、死に至らしめたという。これは天台宗側の伝えで、禅宗側の言うところでは、時頼は酒肉をとり色に惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けたという。この伝えは、江戸時代の享保元年(1716年)に瑞巌寺103世夢庵が記した『松島諸勝記』にある。

天台宗徒は立ち退かされたことになっているが、その後も寺で活動を続けたらしく、南北朝時代に寺の支配をめぐって禅宗徒と争った。さらに江戸時代初めまで活動を続け、円福寺とは険悪な関係が続いた。

臨済宗円福寺は北条氏の保護を得て五山・十刹に次ぐ諸山のうちに数えられた。また、将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。当時の建築物は現存しないが、「一遍上人絵詞」に見ることができる。1991年(平成8年)に当時の遺構の一部と多数の遺物が発掘された。他に、嘉暦元年(1326年)の雲版が伝世する。しかし、戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。


---臨済宗瑞巌寺---
江戸時代に入って伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの工事で完成させた。今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築はこの時のものである。このとき寺の名を改めて松島青龍山瑞巌円福禅寺と称した。一時住持が不在だったが、寛永13年(1636年)に雲居が入り、伊達氏の保護もあって隆盛をきわめた。松島は江戸時代のみならず中世から寺が多い地であったが、瑞巌寺は終始その中心的存在で、松島を訪れる旅人は決まって瑞巌寺に参詣した。

明治の初めに寺領が没収され、廃仏の風潮が盛んになると、収入を失った瑞巌寺は窮乏した。付属の建物が多く荒廃して失われた。1876年(明治9年)に明治天皇東北巡幸の際に下賜金があってから徐々に財政難を脱した。1895年(明治28年)に本堂が国宝に指定されてから、建築物と収蔵品が様々な文化財指定を受けるようになった。1968年(昭和43年)に大書院が完成し、1974年(昭和48年)には宝物舘を開設した。


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